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連載小説:029

029:log
 最初の三分はよかった。その後の五分は苦しかった。その後の四分は人生を振り返り、過去の良かった探しを始めた。
 思えばぱっとしない人生だった。興は、目の前に広がる白と茶色のコントラストを眺めながら遠い目をしている。
 すでに冷めたカレーに、本来の旨さはなかった。満腹の上に積み重ね続ける食事は、食事を摂取する喜びという根本的な快感が全くない。ソレはどれだけ美味であろうとも、体が訴える限界であった。本能を無視した行為に伴った苦痛は次第に思考を麻痺させ、気がつけば目の前に広がっていたのは過去の風景。興は思わず息を呑む。母親と兄と姉と共にいった海を思い出す。大きく、広く、そして海でしか味わえないあの独特の空気。
 開放感に興は思わず顔が緩む。

 いきなりにやけ始めた興をみて、鉄国と小崎はまるで汚い物を見るようなめで興を見ていた。間違いなくトリップしている。カレーになにかヤバイ物でも入っているのではないだろうか、そんな疑いすらもちそうになるほどに興は幸せ絶好調の無邪気な笑顔をカレーの皿の向こう側へとむけていた。
 カレーの残りは三分の一、時間は残り四分。思ったより絶望的な数字だと自分のカレーを口に運びながら小崎は思う。空風は空風で既に食べ終わって満足したのか、至福な顔をして水を飲んでいる。
「おい、興。呆けてないで食べろよ」
 鉄国が見かねたのか声をかける。が、興は反応をしめさない。ただじっとカレーの盛られている皿をみながら笑っている。
 みかねて小崎は頭を抱えた。
「興!」
 鉄国のやわらかい呼び方とは、根源からちがう差し込むような声。まるで空気そのものを切り裂くような、鋭利な言葉に興は驚き一瞬にして目を覚ます。
「お」
「食べられるの? 興」
 冷たい言葉に生唾を飲み込み興は小崎をみる。
「う、ん。やばいかも」
「……、最低」
 あまりに凄みの利いた声に一瞬四人が座るテーブルどころか店内の温度が下がった。
 たしかに食べるまえ、大丈夫だと言った。興はその時の瞬間を覚えている。それは、たとえ確約でなくても、下僕が主と交わした約束。それは反故できるものではない。それこそが契約であり信頼であるのだから。
「ご、めん。大丈夫、約束は――」
「違う!」
「へ?」
「興。恥を知りなさい。豪語したのだから守るのは当然。私がいってるのは、それ!」
 勢いをつけて指を刺したのは、テーブルに落ちたカレーだった。ビシッィという擬音が良く似合うほどの完璧な速度と軌跡をもって指差された先に、呆けたときにテーブルに落ちたのだろうカレーがあった。
「……」
 あまりのことがらに、誰もが反応できなかった。てっきりご飯をつくった百姓に――というのでもないかと考えていた鉄国ですら呆け、いきなり叫びだした客に対応できない店員が目を白黒させ、店内で怒声にもにた叫び声がきこえカップルはスプーンを咥えながら仲良く動きをとめ、ひとりなれているのか空風だけはいまだに至福の表情で椅子にすわって天井をみあげていた。
「え、あ。うん。わかった、食べる」
 なんだかわからないが、とりあえず逆らうわけには行かない。興は指でテーブルからカレーを掬い上げるとそのまま食べる。店内の清掃はいきとどいており、少なくても家のテーブルなんかより全然綺麗だろう。服におちなくてよかった。そんなことを考えながら興は、残っているカレーをみて、一瞬にして現実に引き戻された。
 残り二分。カレーは残り三分の一。

 ◇

 気がそれたおかげで、少しだけ胃が楽になったきがする。興は大きく息を吐くと最初のころのような速度でカレーをかきこみはじめた。
 もちろん最初のころのように空腹だったわけではないので、一気にカレーが減ることはない。が、それでも残り二分。もしかしたら、という期待が高まるなかカレーは確実に減っていった。
 さほど期待してないのか、鉄国は食べ終わった皿を横において水をすすっていた。そのよこで空風が興を面白そうにみている。
 残り四口、しかし興の動きはそこでとまった。
「う」
 吐き気がこみ上げてくる。破裂しそうな胃が激痛をはっし、口にスプーンを運ぶだけで既に吐き気がこみ上げてくる。それでも無理やり口の中に入れると、今度はなぜか飲み込めない。
 吐き気や胃の激痛なんかよりも顕著にあらわれたのは、体が動かないという本能からの拒否だった。
 ――くそっ!
 悪態をついても、全く口に入ったものが飲み込めない。なぜか、体が飲み込むというからだの動きを忘れたかのように、動かないのだ。
 次第に息が苦しくなってくる。口に物を入れたままというのは鼻で息をしていてもなぜか苦しい。無理やり舌をうごかし、喉におしこめる。頭のなかでは、自分に言い聞かせるように大丈夫、大丈夫、と根拠のない言葉がめぐっていた。
「残り三十秒です」
 店員の言葉に、興は慌てて自分の皿を見下ろす。残り二口。いけないわけがない、そう、むしろ余裕だ。いけるはずだ。口の中で吐き気を必死で飲み込みながら、興は一気に半分をスプーンで掬い上げる。
 スプーンが重たい。腕の動きが緩慢だ。口を開いた瞬間、胃から這い上がってきたカレーが、食堂を通り抜け口から飛び出しそうで思わず左手を腹においた。胃の形がわかりそうなほど膨れ上がっているそれを無理やり押して見る。少しだけからだが楽になる。
 口を大きくひらき、一気に口に入れる。残ったカレーを、スプーンですくいあげ、間髪をいれずに口の中へ。
「飲み込んで、食事終了となっております」
 頭の中で、それはそうだと冷静な言葉がつぶやく。いまや興の口の中は大戦争だった。カレー対食道。食道は後ろ盾に胃を懐柔、戦況をひっくり返す殺戮兵器吐き気を導引してきた。カレーは後ろ盾などなく、戦況を有利に進めるには苦しい。しかしココでスパイス連邦のカレー軍が引くわけにはいかないのだ。胃に入らずとも、食道に入れればいい。ふと天啓のごとくひらめいた案に、興は一気にカレーを飲み込む。
 近くにあった水を流し込み、勢いよくコップを叩きつける。
「ご馳走様」
 どうじ、タイマーのなる音。興の頭のなかでファンファーレが鳴り響く。が、別に店内が盛り上がることもなく、店員が一言おめでとうございますと頭をさげてさがっていった。
「よくくったなぁー」
「すごいすごい」
 手放しで鉄国と空風が喜んでいた。ふと興は自分の横をみる。小崎が心配そうな顔をしていた。
「ねぇ、興」
「大丈夫、だったろ」
 吐き気をこらえて笑う。
「約束どおり、晩御飯もちゃんとたべなさいよ」
 多分世界は哀れみもなく、許容もない。

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