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今日の三題話

■連載中のlog
「シスター」「軽い」「左足」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 どうでも良かったはずだったのに。
 ヒサキは視界一杯にアスファルトを収め、自分の呼吸を他人事のように聞いていた。四つんばいになっている自分の姿を想像するものの、恥ずかしさよりも疲れの方が強く体は動かせなかった。あきっぱなしになった口元に、涎が溜まる。違和感に息を吸い込むとだらしの無い音が響いた。
 荒くなった息は一向に収まる気配を見せず、揺れる肩は息に合わせて上下している。苦しさから出た咳が引き金になって、新たな咳を呼ぶ。止まらない咳に呼吸がまた荒くなった。

 呼吸の音に混じり、足音が聞こえた。アスファルトを蹴る数人の足音、その音にヒサキは顔を上げる。
「そこで休んでなー」
 聞き覚えのある軽い声は、足音と共にすぐに背中へと流れていく。振り返れば、湯木と相羽の背中が見えた。
 足音が聞こえて、また前を見る。小さな影と、横に大きな影。部長と志茂居だった。
「酷い格好だな、加賀ヒサキ」
 どことなく、安堵の色を滲ませながら部長が言う。心配してくれたのかと思うと、少し気が楽なる。ヒサキは、ゆっくりと立ち上がった。
 歩みを止めず、賀古井は歩きつづける。背を追うようにヒサキも歩き出した。走ってきたときのあの恐怖は、気がつけばなくなっていた。空には、嘘のようにちりばめられた星空が広がっている。歩調に合わせて、頬に風が当たる。走ってきたときのあの感じとは、全く違う風にヒサキは少し目を細めた。

 飛び出した病院は、既に元の知っている病院へと戻っていた。いや、戻って見えた。所々に見える緑色の非常灯と、廊下を点々とする弱々しい電灯。一番光量があるのが、自動販売機の明かりだったりする、そんな病院。消毒液とガーゼの匂いは、ガラスの扉をくぐる前から鼻をくすぐる。悪魔にしか見えない、注射器を抱えた白衣の天使は夜になるとなりを潜めるが、残念ながら居なくなってるわけじゃない。ガラス越しに見える受付の向こう、煌々と明かりがついているナースステーション。残念ながら、彼女らはシスターのように謙虚ではなく、いつでも獲物を探して爪を研いでいるのだ。
 然し、賀古井はその光りに全く動じずに、電源の落ちた自動ドアに手をかける。わずかに残った隙間に、指を入れ力を入れ始める。ゆっくりと、ヒサキの目の前で扉が開いていった。
 ガラス越しのナースステーションは、相変わらず明かりを湛えている。
 然し、開いた先のナースステーションは明かりをともしていなかった。
 まるで、ガラスに映し出された虚構の映像のように。まるで、コラージュ画像のように。全く現実味の無い目の前の現実に、ヒサキは初めてみた卓球部の部室を思い出した。
 本来、自動ドアは電源を落とし、鍵をかけられているはずだった。それに、電源が切られているというだけでも、普通に開くものでもない。工業用のトラックレールを採用した自動ドアとまでは行かないまでも、そんなに簡単に開くものではない。しかし目の前の自動ドアは、まるで引き戸を開けるようにするすると開いていく。
「さて、追いかけようか」
 開ききった自動じゃない自動ドアの中央で、賀古井が背を向けたまま呟いた。
 そして、追いかけるように志茂居が前に出る。二人が通った自動ドアの向こう、非常灯も自動販売機の明かりも、廊下の電灯も、ナースステーションの明かりもついてない、黒塗りの病院。賀古井の向こうで闇がぽっかりと口をあけていた。
 血の匂い。
 鉄の匂いに混ざる、気分の悪くなる腐臭。腐らない鉄が腐った匂いになるから気分が悪くなるのか、それとも己の中に流れているものが腐っていく匂いだから我慢ならないのか。何故人の死体を見て吐き気を催すのかなんて、ヒサキは聞かれても答えられない。気持ちが悪いのだから、気持ちが悪いのだ。そう答えるほか無い。それは本能が訴えかける、拒否。いつかの己の未来。人は、未来の可能性に筆舌尽くしがたい恐怖と嫌悪を覚える。
 パンドラの箱の中に最後に残った最悪の厄災「希望」。それは、確定という名の災。未来は不確定である、という妄想を信じることができるのは人が希望の結果を知らない殻に他ならない。
 確定されているはずの、滅びと言うものを人は信じるわけには行かないのだ。それはパンドラの箱が空いたときから運命付けられている必然。目の前に突きつけられたとき、本能はそれを拒否しつづけるのだ。
 血の匂いは、それを連想させる。せりあがってくる吐き気に、ヒサキは口元に手を当てて必死でこらえる。初めて見たときよりは、幾分ましになってきたとは彼も思っていたが、かといって全く平気になれるほど図太くは無かった。
 ロビーには、暗闇にうっすらと姿を滲ませる長椅子。茶色い革の椅子。逃げ出したあの瞬間が、ヒサキの頭によぎる。
 震え、叫ぶあの声が聞こえる。幻聴だというのが判っていても、ヒサキは振り返ってしまった。
 既にあの子供も、白い靄も居ない。当たり前だ、もう居ない。自分は見捨てて逃げ出したのだ、あの叫び声から、あの白い靄から、あの子供から。
「どうした? 加賀ヒサキ。何かみえたか?」
「え? あ、いや。なんでもないです」
 ヒサキが見ていた方向に、賀古井が目を向ける。その瞬間、賀古井の表情が一瞬こわばった。
「もう一度聞く。そしてこれ以上は聞かない、いいな? あそこに、なにが、ある?」
 賀古井の気迫に、ヒサキは一歩後ずさる。詰め寄られ、ヒサキは一歩ずつ後ろに下がりつづける。真剣そのものの
「あ、の。逃げ出すとき……女の子が居ました」
 多分女の子だと思う、例え声変わりする前の声だったとしてもだ。
 下がりつづけたヒサキの左足が、壁に当たって軽い音を立てた。
「女の子? 加賀ヒサキ、真実だな? 黙秘するのはかまわないが、虚偽はどこかで犠牲が出るぞ? 真実なんだな?」
 ヒサキは震えながら頷いた。
「ぶちょ、ぶ部長……」
「間違いない、原初だ」
 二人は表情を硬くし、一度頷きあうと病院の奥へと走り出した。
 訳もわからずヒサキは二人を追う。
「あの、原初って」
「加賀ヒサキ。説明は、している余裕が無い。気がつかないのなら、今度説明しよう。今はその女の子とやらを探すのが先決だ」
 走りながら賀古井が言う。走りながらなのに、途切れ途切れにならない言葉を聞きながら、ヒサキは小さく震える背中を思い出す。
 逃げ出した自分を思い出す。
 真っ暗なくせに、良く見える廊下に足音が三つ響いていた。

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