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「不覚」「鋭敏」「旋律」

 雨の日に、思わず近くにあった建物に体を隠した。
 空は灰色に染まり、石畳の地面から立ち上る雨の始まりを告げる埃の匂いが立ち込める。しばらくすれば、全てが雨に洗い流され何もかもが水に染められていく。ドコまでも無慈悲であまりに強い存在感に、世界は塗りつぶされてしまうのだ。
 塗りつぶされていく世界から逃れるように、石畳が上げる叫び声。鬱屈とした空気に混ざる、泣き声にもにたその声に、エピネは息苦しさを覚えてため息をついた。
 背後にそびえる重苦しい建物も、さらにその空気を重くしている。
「ついてないなぁ」
 ため息混じりに呟いた言葉は、雨音に打ち落とされて石畳の上を流れていった。

 手に持った本が湿気るような気がして、エピネは意を決して背後にそびえる怪しげな建物に足を向けた。雨にぬれるよりは幾分ましだろうと、彼女は扉を開け薄暗いロビーへと入っていく。
 昔から、まるでその部分だけ時間がたっていないかのように静止したこの建物が、一体どんな理由で保存され、また一体どんな機能を持っているのか、そんなことはエピネにはわからない。ただ、慣れ親しんだこの街で、唯一何があるのかわからない建物であるのは間違いがなく、さらには記憶にある一番昔のころから、この建物が一つもたたずまいを変えていないということだけは判っていた。
 だからこそ、なおさらに気味が悪い。恐怖に敏感になった感覚は、そのロビーに漂う埃と乾燥した空気に当ってぴりぴりと痛い。
 薄暗く全容が見えないロビーの中央で、エピネは呆然と立ち尽くす。今日買ったばかりの本が、なんだか少しだけ暖かく感じた。
「なんだろ、ここ」
 呟いた言葉が、どこにも反響せず一瞬で絨毯に吸い込まれる。それがなんとも心細く感じ、エピネは本を抱きしめる手に思わず力をこめた。その時、
「……アアアォォォ……ォォ」
 絨毯にも吸い込まれず、遠く響く恐ろしい声が聞こえた。
「ひっ!」
 思わずしりもちをつく。が、ついたしりもちの音すら聞こえない。聞こえるのは、窓を叩く雨音と、遠くから響いてくる獣の鳴き声のような何か。
 恐怖に身を縮め、エピネは震えた体を抱くようにして恐怖をやり過ごそうとする。
 あまりに整わないその鳴き声は、不協和音のようにいからだの内側を引っかくような、恐ろしさを混ぜたくすぐったさ。しかしそれは、笑いが漏れるような物ではなくて、体中が嫌悪感に蝕まれるような不快感だった。

 エピネは立ち上がると、思わず走り出し入ってきた扉に手をかけた。引き戸だったから、押せば開く、力いっぱい体当たりを擦るようにしてエピネは扉を押した。
 が、何かが引っかかるような硬質な音をたて、扉は少しだけ揺れるだけで後はびくともしなかった。
「えぇ!?」
 鍵でもかかったのかと、扉のノブ付近を覗き込んで見るものの鍵穴はあるにはあるが、鍵がないのでどうしようもない。覗き込んだ鍵穴の向こうは、雨の降ってる通りが見えた。
 もう一度と、エピネは力いっぱい扉を押すが動かない。試しにと引いたり横へスライドしたり、最後には引き上げるように扉を動かして見るものの、やはりなんの代わり映えもせずに揺れるだけにとどまった。
「ォォォオアアァァオォォ……」
 獣の鳴き声が聞こえる。近づいてくる気配はないが、それでも恐怖を煽るには十分すぎるほどの鳴き声。
 思わず逃げ道を探した視線に見えるのは、声の聞こえる方向へ続いてるであろう廊下だけだった。
 しかし、この場所に居ても埒が明かない、エピネは自分に言い聞かせるように呟くと、ゆっくりと歩き出した。
 絨毯は乾燥した空気にさらされて踏みしめる足は心地が良い。埃くさいと思っていた室内のそれが、古びた誇りではなくてもっと別の埃の匂いのようなきがしてきた。しかし、エピネは抱えた本を抱きしめ、獣の声に怯えながらゆっくりと廊下を歩いていく。室内の乾燥した空気の所為か、喉がからからになって幾度となくよだれを飲み込んだ。
「なんなの、ここ……」
 曇り空の所為で室内が薄暗い。おかげで気味の悪い建物の中は、さらに気味が悪い物くみえる。
 と、目の前に廊下を目いっぱいつかった扉が見えてきた。中開きで、天井まで扉自身が届いている。中々見ないそのつくりに、思わずエピネは足と止めその巨大な扉に目を奪われた。

 目の前で、ノブが回る。

 驚きに、声も出ず廊下に倒れこむエピネ。獣だと思っていた相手は、もしかしたらもっと何か別の……そこまで考えて、気絶しそうになる自分を必死に勇気付ける。本を投げ捨て、後ずさりながらこぼれる涙を無視して、必死で四つんばいでこの場から――!

 大きな扉がゆっくりと開く。木と木がこすれる軋みが、悲鳴にもきこえ、エピネは意識が遠のくのを感じた。
「ありゃ、お客さんだ」
 と、いきなり間の抜けた声に、エピネは体中から力が抜けるのを感じた。
「ふえぇ?」
 仰向けで後ずさるようなポーズのまま、首だけを声の方向へ向けて倒れそうになる。
「ん? あのコレ」
 そういってメガネをかけた少女は、エピネが投げ捨てた本を拾い上げる。
「あなたの?」
 なきそうな顔のまま、エピネはこくりとうなづいた。
「アォォォォ」
 開いた扉の奥、獣の叫び声がした。
「ひぃ!」
 思わず身構えるエピネ。その姿を不思議そうな顔で、彼女が見ている。一体何に驚いてるのか、そういった疑問の顔のまま、彼女は振り返った。
「……ナァ」
 すっ、と影から現れたのは猫。
「へ?」
 倒れたまま、エピネは全てを悟る。声が反響して、猫の鳴き声が聞こえていただけだったのだと。
 安堵に体中の力が抜けた。
「あの、そんなところに寝ると汚いですよ?」
「ナァァ」
 帰ったら、下着を履き変えないと。エピネは天井を見上げながら、涙目で考える。
 遠く、雨は降り止まず、雷の音が聞こえる。

「柵」「思い込み」「揺れる」

 空は狭く、否応にもその場所が区切られているのだという事実を突きつけてくる。
 周りを見渡したところで見えるのは、黒い鉄の柵。そしてその鉄柵に区切られた丸い空。面積は広く、走り回ることぐらいならば問題ない、けれど視界をドコへ向けてもその柵は目に写るのだ。
 黒く湿った土を踏みつけて、シュロは走る。眼前に迫ってくる柵を睨み、減速するどころかさらに加速した。湿った土の、重苦しい音と耳を叩く風の音だけが彼の中に響き、それ以外の何もかもが聞こえなくなっていく。
 程なく、柵の内側に鉄が揺れる音が響いた。振動は一瞬にして広がり、円を描く柵を一周。、音源はまるで地平線を埋め尽くし、とんでもない速度で移動しているようにもきこえ、ビロウはめまいを覚えてその場にへたり込んだ。
 空が青い。雲はなく、ビロウの目には太陽しか写っていない。柵の中、囚われの二人はいまだ外に踏み出せない。

 ひとしきりいつものように、柵に体当たりする行事を終え、シュロは軽い足取りでビロウの近くまでやってくる。
「だめだった」
「そ」
 何度ぶつかっても、柵は細かく振動し頑強さをただ知らしめるだけにとどまる。しかしシュロは体当たりをやめようとはしなかった。毎日毎日、日が顔をだし中天に上りきるまで、何度でも彼はぶつかっていく。
「そろそろ諦めたら? どうで逃げられっこないし」
 ビロウの言葉に、シュロは肩をすくめるだけで答えずそのまま腫れた肩をさすってビロウの横に座り込んだ。
「地面ほるとか、もっと建設的なことのほうがいいとおもうんだけど?」
「別に逃げようと思ってるわけじゃないし、ただやることないから」
 シュロの言葉に、呆れたとビロウは呟く。彼女の小ばかにした視線に、シュロは居心地悪そうに体をよじった。
「だったら、それこそやめればいいのに」
「じゃぁ、なにしたらいいのさ」
 ぶつかる以外にすることがないのか、その突っ込みを必死で飲み込みながらビロウはため息で返事をした。空が青い。することはない。地面は黒く草が思い出したように所々に顔を出しているだけ。柵にかこまれたこの空間の中央、りんごのなる木がある。まるで聖書のようだと、ビロウは思い、横に居るシュロをみて首をふって考えを追い出す。
 ――さすがにそれは勘弁。
 雨が降ることもなければ、寒かったりあつかったりすることもない。風も自分から起こさないとない気がするし、何もかも漠然としなかった。
 抵抗がないから、忘れてしまうのだ。
 寒さがないから、暑さを忘れ、暑さがないから寒さを忘れる。だから、温度というものを意識することがなくなった。雨が降らないが、地面は湿り続け、空気は乾燥することなくかといって湿気て不快でもない。だから、雨を忘れた。
 変化がなければないのと同じなのだ。
 もしかしたらシュロは、己の体にその変化を与えることで自分をたもっているのではないか、そこまで思い至り、ビロウは馬鹿な、と頭の中で一蹴する。
「腹減った」
 のそのそと、腫れた肩をさすりながら木に登っていく姿はいつもの通りでそれこそ変化のない現実を突きつける。
 変化がないものはなくなる。ほとんどその場から動かない自分は、もしかしたらそろそろ消えるかもしれない。温度を実感することはない、湿気も実感することはない、もうなくなったものだ。雨はなく、雪もない、私もいないのかもしれない。
 ただ、繰り返す太陽と月はいつまでたってもなくならない。
「そうか、繰り返してるのならいいのか」
 呟いた言葉に、ビロウは自分で頷く。同じことでも繰り返すことで、消えることが防げるのだ。地面を蹴るシュロがいるから、地面は存在し、肩をぶつけることでシュロは存在し続けている。ビロウは思う、自分は考えそして文句を言い続けることで存在している。
 ――じゃぁ
 シュロにぶつかられることで、柵が存在しているのではないか。ビロウはその答えに驚き立ち上がる。
「うお。どうした、ビロウ」
「ねぇ、お願いがあるんだけど」



 無理やりに、シュロを納得させ了承させた。尋常ならざる労力がいったが、渋々シュロはそれを納得してくれた。
「……わかったよ」
 そういって所在なさげに彼は地面に寝転ぶと空を見上げる。
 いつもビロウが寝ているよこで、シュロも同じようにただ空をみあげ何もせずに時間をつぶしていく。
 何もない。
 何もないとあやふやになる。あやふやになると、ないのと同じになる。
 動くものがいなくなって、風がなくなった。温度も湿度もなくなり、太陽と月だけが空を駆け巡っている。
 気がつけば、時間もあやふやなきがしてきた。ビロウはおもむろに地平を眺める。
 あやふやな地面、すでに歩くものがなくなった地面はあやふやでそして、柵すらもあやふやになっていた。
 思わず喜びに、ビロウは体を上げる。
「シュロ、見て!」
 けれど寝ていたはずのその場所に、シュロはいなかった。なにもなく、あやふやでただ空間だけがそこにあった。
 囲まれていたのではなかった。シュロは必死にセカイをつなぎとめていたのだ。
 それももう終わる。あの囲いは閉じ込める囲いではなくて、守るための壁だったのに。
 ため息をついた。風は起きない。見上げた空にりんごの木。
 赤い、赤い唯一の色彩はビロウの視界のなかで風もないのに揺れた。

「確率」「反骨」「大志」

 清明の初候。七十二候で言うところの、玄鳥至。
 既に桜は散り疲れ、それなりに暖かくなりはじめたその風に、僕はツバメの姿を見た。夕暮れ時の青と赤が混ざりきらないあやふやな空色を眺めていると、それを背にツバメの影が見えたのだ。僕はその姿に、息を呑んだ。
 流れ星のように、一切の逡巡も迷いもない力強い飛閃は、まるで空を切り裂き弾丸のように空を横切っていった。
 ツバメは空中で方向を変えると、そのままどこか巣に帰っていった。それを皮切りに、日が沈みきり、まるでスイッチを押したように空が暗くなった。ツバメは、ただ探していた虫が見つかったか何かで戻っていっただけだろうが、なぜか僕には空にある電灯のスイッチを引っ張ったような気がしてならなかった。

「なに、黄昏てるんです? せんちめんたりーですか?」
 その声を無視して、僕はポケットに入っていたタバコを取り出して口に咥えた。視線の端に、電気のつけていない自分の部屋と、いまだ夕日の名残のある赤みがかった空がガラス戸にうつってみえた。
 タバコに火をつけて、肺に煙をしみこませる。タバコは、始めの一口が旨い。それ以降は、ただの惰性か、次のタバコを吸うまでの時間つぶしだ。煙を吐き出しながら、空を見上げ、そして視界にそれは飛び込んできた。邪魔なので煙をわざと吐きかけるように仕向ける。
「ごほっ……、部屋入らないと風邪引きますよ」
 訝しげに目を細め、もう一度タバコの煙を充填していく。目の前に浮いている、小さな塊にもう一度煙を吐きかけるために。
 危険を察したのか、彼女はさっと羽を羽ばたかせると視界から消えた。
「……」
 煙の届かない場所まで退避すると、また先ほどと同じく部屋に戻れと囀る。その姿は不恰好ではあるものの、妖精然としていて、疑いようのない人外だ。頭がおかしくなったのかとも訝しがった時もあったが、既にそれも飽きた。
 タバコを吸いながら彼女を牽制し、僕はその姿を観察する。といっても、離れているからよく見えない。もとより僕は目が良いわけでもないので、視界を狭める意味で目を細める。その僕の姿に、何を勘違いしたのか彼女はくるりと空中で一回転をした。
 白いワンピースのようなかざりっけのない服に、四枚翅。羽でもなく、羽根でも、翼でもなく、翅だ。虫のハネである。虫でいえば、成虫の証でもあるその翅だが、彼女はどう見ても成人女性のそれには程遠い精神構造をしていた。
「それとも、バカは風邪引かないっていうアレですか?」
 相手をするのも馬鹿らしくなったのは間違いないので、僕はため息混じりに最後の煙を吐き出すとそのまま部屋に戻った。後ろ手でガラス戸を閉じる。
 なにやら後ろでガラスを叩く軽い音が聞こえるのだが、無視して鍵を閉めると消えたタバコを灰皿に押し付けた。

 簡素なマンションの十階。日当たりはよいが、風が強く地上に降りるまでに時間がかかるのが難点。そんな部屋の片隅は、夕暮れ時にかまけて暗く沈んでいた。元来モノに執着するような性質ではないので、部屋は入居当初とほぼ変らない様相のままだ。ふとポケットに入っていたPDAが熱を持っているような感覚を得る。太ももに触れていた部分が熱いのだ。
 電源が入ったままだったか、とポケットからPDAを取り出すと、
「子供のお仕置きですかー! もー! 寂しくて鼻血吹いて死んじゃうところでしたよ!」
 なんて、叫びながら先ほどの妖精が飛び出した。自称PDAの精。ふと、PDAを窓から投げ捨てるべきだったか、という衝動に駆られたが値段を思い出してその衝動をこらえる。
「バカは風邪引かないんじゃないの?」
「私はバカじゃないですよ!」
「なら、アホだな。ピルム、電気つけてくれ」
 僕の言葉に憤りながらも、彼女は部屋の電灯のスイッチを入れてくれる。最近のPDAは便利になったな、というと決まって自分がすごいのであってPDAそれ自身がすごいわけではないという理由を、三時間前後に渡ってありがたいご高説をぶってくれるので、言わないように口の中で呟く。
「それにしても、いつまで居る気なんだ? もしかしてPDA捨てるまで居る気じゃないだろうな」
 背中にそう呟くと、くるくると回り近くのテーブルに降りた。
「私は、つぎはパソコンの精になるのですよ!」
 拳を握り、僕の拳二つ分ぐらいの身長しかない彼女が叫ぶ。
「そりゃ、たいそうな夢だな。で、いつ消えるんだ?」
「PCになれば、もっと長く居ることができるのですよ!」
 その答えに、いやみったらしくため息をつくと僕は台所へと足を向ける。
「反応なしですか!? それとも、コレが有名なツンデレというやつでしょうか?」
 いちいち反応しては話しにならない、そんなこと彼女と生活して既に一年近くが立とうとしてる今の僕には嫌というほど理解している現実だ。
「反応してくださいよう。寂しいと兎は鼻血を出して死んでしまうのですよ」
「兎は性行為をしすぎると血を出して死ぬが、寂しいだけでは死なない」
 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出しながら言うと、あからさまに驚いた風な格好で固まるピルムが見えた。
「兎はストレスに弱い、遊んでいていきなり主人が居なくなれば死ぬかもしれんが、寂しいだけでは死なない。そんなか弱い生物が、今まで生きていられるはずがないじゃないか。それに、そんなか弱いのだったら、ピルムとは天地がひっくり返っても同列に並ぶことがないから安心するといいぞ」
 言い負かされたピルムは、がっくりとテーブルの上でうなだれる。
「で、でもほら、もしかしたらっていうことも」
「お前が兎と同じだというのなら、カオス理論を作り上げた先人たちも自分の数式をあわてて見直すだろうさ。いくら蝶が羽ばたいたら海の向こうでハリケーンが起きようともね」
「うぅ……うう。精神的レイプです……」
「ピルムが頭のおかしいことを言うから仕方なく、現実というものを――」
「うわーん! 絶対PCの精になっていついてやるんだから!」
 言葉を遮り、ピルムは飛び立つ。
 それだけの元気があれば、十分だ、僕はそんなことを考えながら足で冷蔵庫を閉めた。隣の寝室で、ピルムが扉は手で閉めてくださいと叫んでいる。
 そういうところだけは細かい。

 大それた夢を見続ける妖精は、結局夢をかなえられないまま今日もPDAの上で寝息を立てていた。
 それはまるでPDAの精だということを、対外に知らしめる行為にしか見えないが、本人には他の理由もあるのかもしれない。うつぶせになるのは、翅があるのでしかたがないのだろう、たまに横に寝ているときも見るが、大体PDAから落っこちている。
 今もPDAの上で寝返りを打って危うく落ちそうになった。手を差し伸べ、PDAの上に戻してやる。
 風呂から上がったばかりの毛先から、ぽつりと水滴が落ちる音がした。
 PDAでこの大きさだと、PCの精になってしまえばどれほどの大きさになるだろうか。小学生ぐらいの大きさになるかもしれない。そうなると、逆に扱いづらいかもしれない。
 せんのないことを考えながら、僕はピルムの翅に手を触れた。透き通る翅は、電灯の光を浴びて虹色を浮かび上がらせる。
「翅は綺麗なのだけどね」
 呟きながら、毛先かたたれた水滴を近くにあるウェットティッシュでふき取った。綺麗にたたみ――
「お休み」
 ピルムの上にかぶせる。
「……永遠になっ!」
「ぶっふぉ」
 呼吸につまり、ピルムの咳が部屋に響く。

「敗者」「安堵」「復活」

 湧き上がってた。声の一つ一つを認識することは既に叶わず、うねり迫る巨大な波としてしか聞こえなかった。
 太陽と月の長さが同じになった日から数えて最初の満月が昇った日の次の日曜日。そんな長ったらしい決まりの上に成り立つ祭り。誰が言い出したか知らないけれど、そんなこと騒ぎの中央に居るメノウにとっては、いつも忘れてしまうほど同でもいい日だった。

 けれどその日が、皆が踊り、歌い、騒ぎあう楽しい日だというのは間違いがなかった。冷めた目でその群集を見上げてるメノウのほうが異端なのだ。
 彼は、その冷めた目で周りを一通り見渡すとため息をつく。見下ろされてるのが気に食わないのか、視線を地面に落とし背中で喧騒を受け止める。土埃と久しぶりに出した戦衣装の匂いに、自分が居る場所を再度認識したのか、一度拳を強く握りしめると肩をつかって大きく息をした。
 顔を上げる。彼の視界の中に、対峙する男の姿が見える。ジェードだ。メノウより一回り大きく、体つきもしっかりしているのが彼の居る場所からでも嫌というほど判る。それでもジェードは挑戦者で、メノウは保持者だった。
 太陽と月の長さが同じになった日から数えて最初の満月が昇った日の次の日曜日。
 祭りの名をリザーラ。起源は既に誰も知らず、けれど日にちだけは伝えられ、祭りだけは続けられている。既に祭るモノも不在、祝う事柄も不明ではあるが、祭りだけは確実にこの場所に息づいている。そして代々伝えられてきた祭りの内容の一つに、いまメノウとジェードが立っているその場所が用意されている。
 コロシアム。周りは、鉄柵で囲まれ逃げ出すことは不可能。すり鉢上になった観客席では、人々が祭りに疲れて腰を休めたり、試合を楽しみに野次を飛ばしたり、勝利者がどちらかになるのか賭けをしたりしている。
 武器のない徒手空拳による試合。その試合そのものに名前はない。既に形式化された流れに乗って祭りを繰り返してるだけでしかないのだから、それも仕方がないのかもしれない。けれど、メノウはこの試合の意味を知っていた。彼は誰にも言っていないし、聞いたこともないが、今まで幾度となく挑戦者を殴り倒してきた彼は、この試合にこめられた意味を肌で感じていたのかもしれない。それが正解かどうか、そして真実がどうなのか、そんなことはどうでもよかっただろうし、興味もない。
 メノウは拳を握りなおす。手に巻かれた布が、普段立てないような軋みを上げた。布が返してくるその力の流れを起点に、メノウは体中に力を入れていく。
 ――始まる。
 体から膿みを吐き出すように、すべての随意筋を引き締め、そして呼吸と共に緩めた。
 同時、試合開始の鐘が鳴る。

 最初に飛び出したのは、ジェード。村では好青年で面倒見がよく、力持ちで頼りがいのある青年で通っている。頭は少し弱いが、有り余って性格が良い。こんな場所に出てくるような、そんな人間ではない、メノウはそう思っていたのだけれど、周りにそそのかされたのか、こうして対峙することになった。
 ジェードを応援する声が、ざわめきの中に混ざって飛ぶ。それに比べて、自分はどうだ。メノウは問いかける。既に保持者――優勝者――になって、何年もたった。何回勝ち続けていたかなんてメノウにはどうでもいいことだったし、祭りのたびに声がかかるから顔を出してるに過ぎないイベントでしかない。保持者には賞品が用意されていて、保持者になれば数ヶ月家族全員で家にこもっても飢え死にしない程度の食料がもらえる。あんたには、本当に助けられてるね、と母親が言ってるのを上の空で聞いた記憶を思い出し、不愉快さに眉をしかめる。
 ジェードの拳が眼前に迫っている。母親が、毎年毎年ありがとうという声が聞こえる。拳が風をきる音。腫れ物を触るようなそんな扱いで、兄が今年も勝ってくれよ、と言った。
 軽く一歩後ろへ。それだけでジェードの拳は届かなくなる。人を殴ることに躊躇いのある拳だ。痛いのだろうと、想像してそれで身がすくんでいる。
 ――そうじゃないだろう。
 幾度となく、父親に殴られた。小柄の割りに力があるのは、無理やり子供のころから力仕事を任せられていたからだ。痛みも、力も、メノウにとっては嫌な思い出しか喚起させない。
 下がりきった体を、無理やり腹筋で押し戻す。伸びきった拳が目の前にあった。そこへむかって、力いっぱい頭を突き出す。伸びきった腕にそのままメノウの頭突きの衝撃が伝わったのか、ジェードは腕を吹き飛ばされて地面に崩れ落ちた。歓声が上がる。半分以上、ジェードが倒れたことに対する叫び声のような気もするが、メノウは気にせずに飛び掛った。
 地面をけり、眼窩にジェードを捕らえる。
 恐怖に押しつぶされた表情をしているかとおもえば、ジェードはむしろ逆にメノウを睨み返していた。いつもの物腰の柔らかいジェードを見慣れていただけに、メノウはほんの一瞬だけバランスを崩す。
 その一瞬で、ジェードはメノウから逃げおおせていた、地面を転がるようにして。着地したときには、ジェードはその場にはいなかった。メノウはそのままの格好で躊躇わず地面に伏せる。同時、頭の上を重たい音が通り過ぎる。起き上がりざまの蹴り。見ることもせずそれを確認したメノウは、バネ仕掛けのように一瞬にして後ろへと飛び退った。
 対峙しなおしだと言わんばかりにメノウはため息をつきながら立ち上がる。もう歓声は聞こえてこない。ゆっくりと体制を立て直すジェードをみながら、メノウは家族を思い出す。
 まるで家族ではない家族を。
 自分の機嫌を損ねては、食事にありつけなくなると言わんばかりに媚びへつらう父親と姉。出来るだけ近寄らないように自分と距離を置く兄と弟。母親にいたっては、メノウが何をしてるかなんてわかっちゃいない。
 吐いた唾を足でこすりつけながら、ジェードを見つめる。恵まれた彼の境遇に、一度も嫉妬しなかったといえば嘘になるが、かといって身もこげるような思いに駆られたこともない。
 今ココで、なぐったところで、幾ばくかの鬱憤が晴らせるかといえば、それはないだろうとメノウは思う。
 かといって、自分は負けてしまえば居場所がなくなる。ジェードとは違う。そのことに、少なからず立場の強さを思う。
 飛び出しながら、風の音を耳できき、握りしめた拳と踏みしめた足に重みを感じる。
 純粋な腕力では勝ち目がない。かといって、技術などあるわけもない。メノウが勝っているのは経験。そんなものは、心も持ちようと状況でいくらでも覆せる。腕力が体調によって左右されるように、経験は状況で覆されるのだ。
 振り切った拳が、空を切ったのを認識した瞬間体の中心を射抜くような衝撃を受けた。
 落ちる感覚。しかし、すぐに背中に衝撃を感じる。見えるのは、コロシアムを照らす炎と星空。
 ――あれ?
 疑問に思った瞬間、意識がやみに落ちるのを感じた。

 医務室て目を覚ました時には、既に朝がきていた。
 メノウは自分が負けたのだと教えられても、表情一つ変えずに、そうかと頷くだけで後は何もしゃべろうともしなかった。
 いまだ拳にまきついている戦衣装の布が、なんだか少しだけおかしくみえてメノウはそれを外していく。
 不思議と、自分が落ち着いてることに気がつき首をかしげた時。ちょうど、扉が叩かれた。
「はい」
 入ってきたのは、ジェード。調子はどうかときかれ、悪くないと苦笑したメノウは、手の平を降って答える。
「僕も、保持者の苦しみがわかったかもしれない」
 ジェードの呟きに、メノウは首を振って気のせいだと答える。勝ち続けなければいけないプレッシャー。それから開放されたメノウは、ようやく呼吸が出来るといったふうに、大きく息を吸って笑った。
「ま、がんばれや」
 元気のないジェードの肩を叩く。医務室に風が流れ込んでくる。また来年の祭りのために、村は動き出す。

「気体」「期待」「希代」

 危殆に瀕していた。最高にして完璧な王国とまで言われたこの国が、だ。誰もが信じられないという面持ちで、王の言葉を聴く。だけれど、そんな表情をしたのはこの王国の国民だけだった。永遠に閉ざされ、外を知らず、外を望まず、他を知らずに己の国だけで全てを完結させていたその王国は、初めて外を知り、そして最期を告げられた。

 既に周りが変っていたのだ、と気がつかされたときにはもう王国の周りは見渡す限りの敵。古い慣習にわざわざのっとって行われた開戦の知らせすら王国はすぐに動こうとしなかった。
 たしかにその王国は、最高にして完璧とまで言われていた。
 城壁は高く雲までそびえてるかというほどで、城門が開くことはなくまた唯一流れ込んでいる川はいかなる毒すら浄化するといわれる上水場を通っており、国へのアクセスはほぼ皆無といってよかった。
 王政は排そうと、やってきた連邦はそのあまりにも完全に閉じた王国をみて皮肉をこめて呟いた。
『ヘリウム』
 頼るべきを知らず、己が道のみしか見えず。

 空にそののろしを見つけたのがそもそもの始まりで、ほとんど仕事のない城門の警備兵は慌てふためき王宮へと駆け込んだ。
 大昔からそののろしは、開戦の合図だとされているからだ。
 とはいえ、外を知らない彼らはその狼煙を信じようとはしなかった。ただ、仕事で外を見る機会のあった城門の警備兵だけが、その狼煙に怯えたのだ。だから、あとの誰もがただ煙を見上げるだけで、何も思わなかったし何もしなかった。
 異常を異常と認識した時には既に国は包囲されていた。
 王国の中で希代の天才とまで言われた老研究者が呼び出され、なにか良い知恵をと王がすごんでいたころ、城壁の周りでは着々と連邦軍が距離を縮め、今にも城壁を崩さんとしていた。とはいえ、城壁は雲突く高さと歌われるだけあり、そう簡単にそれを崩し攻略することはできなかった。けれど、城壁からの攻撃はなく、ただ淡々とまるで取り壊し工事のようにその作業は進められていく。

 老研究者は、王の言葉に答える。
「猛毒のガスを作りましょう」
 城壁があれば、中に流れ込んでくることはなく、いつしか自然に風に流されてガスは消えうせる。空気より重ければ城門さえ開かなければガスが中に入ってくることはなく、勝手に城壁の周りで外の人間は死ぬだろうと。
 程なく、城門に存在しているかもしれない空気が通るような穴をふさぐ作業が始まった。
 それに伴い老研究者は猛毒のガスを研究しはじめた。空気よりも重く、日の光でゆっくりと分解し、しかし一瞬で人を死に至らすだけの毒を。
 程なく毒は完成する。
 けれど既に城壁に張り付いた連邦軍は次第高く上り始めてはいたものの、以前頂上は遠く城壁そのものを壊そうとしていた舞台もいまだ向こう側が見えることはなかった。

「では、あとは、その毒を城壁に張り付いた外の人間に満遍なくかけるだけでよいのだな?」
 王の言葉に老研究者は無言で頷いた。すぐさま、城門の警備兵全員にその毒の入った小瓶を持たせると、城壁にある、小さな小窓配置した。
 既に勝った気でいる王はそのまま、民衆で溢れかえった広場に向けて叫ぶ。
 この世界を脅かす外の人間が居ること、そして既にその軍勢が城壁の周りに取り付いているということ、今更ながらに告げられる真実に民衆は恐怖した。
 だが、安心しろ既に城壁に取り付いた外の人間は今まさに己の運命を知らないのだ、王は叫び城壁にいる城壁の警備員へ合図をした。
 王の合図に、警備員達は一斉に小窓から顔を出し小瓶を傾けようとする。
 ただひとつ、城壁を登っていた連邦の人間をみた警備員以外は。
 偶然小窓を覗いていた連邦の人間と鉢合わせになった警備員はしりもちをついた。小瓶はその場で割れる。
「う、うわぁぁぁ!」
 中で叫ぶ声をきき、連邦の男は首をかしげた。攻撃されるタイミングだったというのに何もされず逃げ出す足音だけが残ったのだ。

 結局、城壁を登りきることは叶わず、先に城壁が打ち壊された。当然といえば当然の結果ではあるが。
 崩れた城壁から連邦の人間が流れ込むと、そこでとんでもない光景を見ることになった。
 生きた人間が誰一人もおらず、そこには城の周りに集まり集団自殺をした民衆だけが残っていた。
 初めて吹き込む地面の風が、城壁にあいた穴から流れ込んでくる。連邦の人間は、城門を内側から明け、一気にこの国を侵略していった。
「外の人間め……」
 城の上、ただ一人毒の被害から逃れていた王はその光景を憎憎しげに見下ろしていた。
「死ねっ」
 投げ落としたのは、毒の入った瓶。国の威信をかけ、国の希望全てを詰め込んだ、人殺しのガスの元がつまったそれは綺麗な放物線を描き城門にむかって飛んでいく。

 ガラスの割れる音。
 色の無いガスが広がるのが、王には見えた。
 誰も居ない、全てを閉ざした国は、その存在そのものを消した。