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連載小説:041

041:log
 考えるのが面倒くさくなって、全てを放り投げて「もうしらない」と言ってしまいたい。怠惰な感情というのが、自分にのこっていたことに彼女は驚く。
 彼女は上手くいかないことにいらだつほど、経験が浅いわけでも成功者の人生を歩んでもいなかったし、それなりに苦労もしてきたつもりだったし不測の事態でもたいていは対処できるであろうぐらいの場数は踏んできたと思っていた。
 そもそも場数でどうにかなるようなありきたりな状況ではないことも判っていたが、どこか昔に影響を受けた楽観主義な部分が顔をだしたにちがいない。反省しても始まらないし、悔やんだところで変らない。かといって妙案が浮かぶわけでもないし、なんともやるせないままため息をつこうと息を吸う。
「供⊇」
 小崎の呟く声が耳に届いた。
 ――面倒くさい。
 打開策のいくつかは、確実に状況を好転させるだろうと彼女は予測する。だがどの打開策も、最善ではなく、いくつかのことにたいして諦めなければいけない。
 元来諦めるということが嫌いな彼女にとって、その選択はあまりにも苦渋だった。

 苦渋すぎて、次第に苦しみや不快という感情よりも先に、頭が思考を放棄しかける。それではいけないと、思い返してみるものの結局はその辺りの思考を行ったり来たりしているだけだった。
 人に頼むということを知らない彼女は、じっとその場で伏したまま動かない。遠く電車が線路を揺らす音が響いている。
 夏の日はいまだ高く地面をてらし、海がちかい独特の湿気が肌にまとわり付いてきて気持ちが悪い。風は工事現場を覆う覆いの所為でほとんど吹き込んでは来ない。アスファルトではなくむき出しの地面だというのだけが唯一の救いだった。
 膝をつき興は動けずに血の混じった咳を繰り返し、腹部に弾丸を抱え込んだ小崎は苦痛と吐き気にうずくまっている。
 その原因を与えた男は、片手に拳銃を持ったままケタケタと笑っていた。
「あーあーあー! 最初からこうしてれば良かったぜ。あーもー体とかまた作り直しだ。めんどくせー」
 悪態を作りながら、肩を揺らして彼は笑う。既に顔面は半分以上がつぶれており、体も腰からおかしな方向へ曲がっている。
「おい、テメェら。役立たずもいい加減にしろよ? 限り在る資源なんだからよ」
 男の声に、影からうめき声のような返事が上がった。
「おい、何人か食わせろ」
 ゆらりと声にこたえるように影が形をもち男の周りに集まっていく。影から伸びた何かは、ゆっくりと人間の形を取り始めた。
「ん? ああ、まだ生きてるのか」
 一瞬興たちを一瞥すると、取るに足らないと判断したのかすぐに視線を外した。
 影は四つ。一つは男と似たような青年の姿だ。優男ふうではあるが、すこし体つきが良かった。もう三つは女性の形になる。一つはセミロングで手に長い棒を持っているように見えた。その隣には、その女よりも頭一つ小さいロングヘアの少女といったほうが適切であろう女に、そしてもう一人はセミロングの女よりも大きく、呼び出した男よりも偉そうに胸をそらしたショートカットの女だった。
 小崎は霞む目で、その四つを見ていた。
 誰もが自分の知らない人間の姿を取っている。表情までみてとれるほどに視界は機能していなかったし、印象の薄い知り合いを思い出せるほど頭に血は来ていない。
 ――あれはだれ?
 アレらは、基本的に知っている人間の形をとっていた。今の今まで例外は、あの優男だけで優男は例外だといって誰もが納得するレベルだった。が、今男が呼び出した四つの陰は今までのアレとなんらかわりのないモノだった。獣じみた雰囲気と知っている人間の姿だけをとったものだったはずだ。
 見知らぬ人間の形をとる理由はなんだろうか。それとも今までわざわざ見知った人間に形を変えていただけで変える必要は無かったのだろうか。そのほうが納得はできた。
「んじゃま、いただきます」
 優男が呟いた。

 口ではなくて手が、かぱっと嘘のように開いた。歯も無ければ舌もなく、そこにあるのは空洞だけ。まるで手につけるパペットのようなあまりにも無機質で形だけの存在がそこにあった。
 そのまま人一人の大きさを一瞬にして飲み込む。
 続いて隣。ぱくりぱくりと、まるでホラーというよりは漫画のようなあっけなさとまぬけさのまま、その行為は全員を飲み込むまで続いた。
 空は相変わらず日がてっており、風は一向に吹かない。吐く血もないのか、興はその場で倒れた。心臓がうごくたび爆発するように痛む腹を押さえながら、小崎が興をみて唇をかみ締めた。既に彼女の唇は真っ青で、顔は蒼白だ。頭から血をながしうつぶせに倒れたままのムイは動きもしなかった。
 倒れた衝撃で、興は一瞬闇に落ちかけていた意識を取り戻した。
 地面に倒れこみ腹を抱える小崎と、うつぶせに倒れこんだムイの姿が見える。
「まーだいきてるの? 肺打たれたのに元気だな、あんた」
 真上から声が掛けられて、興は目だけをそちらへむける。優男の顔が元に戻っていた。変な方向へ折れ曲がった腰もなおり、始めて見た時と代わりの無い姿になっている。
 ――ああ、無駄だったのか。
 あの時しっかりと踏んでおけば、そんなことを考えながら興は目をつぶる。ずいぶんと疲れた。呼吸するのも億劫になったあたりで、興はそのまま意識を落として行こうとした。
 もう、それ以上彼は何も考えていなかった。
「おわるか」
 それはムイの声だった。
 ――え?
 思わず体を起こそうとするが、全くうごかない。
「興、そら朝弓が苦しんでるぞ」
 ――けどもう。
「仕方がないな、本当は私がかかわるわけには行かないんだが」
 ムイの声はシカタなさそうにため息をついた。
「アレらの存在は、波のようなものでね」
 ――波。
 ゆらゆらと揺れるイメージ。
「世界の揺れをひとところに集めたら、あんなふうになった。といったところなんだが。まぁ君は起きた時には忘れてるからいってるんだけど」
 ――わからない。
 思考がとぎれとぎれになる。
「昔、世界は不安定でね、不安定な部分を別の誰か別の場所へと押し付け続け、気がついた時にはたった一人に押し付ける結果になった。が、当然一人で背負い込めるわけもない。揺れは酷くてね、その子は因果からとりのこされてしまったのさ」
 ――因果?
「彼女には始まりも終わりも無い。矛盾した存在なんだ。ま、そんなわけで美甘・興。そんな哀れな少女を救ってくれないかな」
 ――どうやって。
「君が一つ、あるものを捨ててくれればいい。それですむ」
 ため息と、後悔と、押し込めるような嫌悪感が言葉の端々に聞き取れた。ムイはきっとそのことを自分にいった事を後悔しているのだと、興はなんとなく思った。

連載小説:40

040:log
 油断をしていたのだというのなら、誰もが責任を負うべきだったし不注意というのであれば、やはり誰もが責任を負うべきだった。
 彼らの存在というのは、ムイが思っているほどにか弱いものでもなかったし、興が思っているほど単純でもなかった。世界中の矛盾を、不幸を、不条理を、彼女一人に押し付けたのだ、そんな簡単な物ではなかった。それを知っている彼女は、ただ一人正しい認識をしていた。
 決して臆せず、決して油断せず、決して手を抜かず、常に本気だった彼女だけはただ一人その恐怖を認識していた。

 乾いた破裂音が二回、小崎の耳に届いた。

 音は遠くのビルや近くの建物に反響し、乾いた音を繰り返す。どこかで聞いたことの在る、覚えのある音。どこだっけか、と小崎は考える。
 ――酷く懐かしいわりに、どこか身近な音。
 油断をしていたわけでも、手を抜いていたわけでもない。
 ――その乾いた音と一緒に思い出すのは、歓声と土埃と石灰の匂い。
 ただ、興の胸は小崎にとっては広かった、だから見えなかった。それだけだ。
 ――ああ、そう。体育祭できいたことがある。なんだっけ……。
 答えに行き着く前に、目の前の興が震えた。
 ――そうだ、徒競走とかで聞く。スタートの合図。
 赤い、何かがあたりを彩っていく。
 ――そう、火薬が破裂する音。銃の発射音。
 口から赤い血を吐き出しながら、焦点の合わない目を揺らし、興が膝から崩れた。
 思わず彼を支えようと小崎は一歩前に。その視界のなかで、興のシャツの胸の辺りが赤く染まっていることに気がついた。
 ――あれ?
 どうしたのだろうと、疑問が頭の中を掠める。
 同時、腹部が燃え上がるような痛みを訴えだした。思わず目の前が真っ赤になる。最悪だった、一瞬にして状況を理解するが、全く対処ができない。
 背後から興の肺を襲った凶弾は、そのまま彼の体をぬけ、小崎の腹に形をかえ軌道を変え、突き刺さった。体中の神経が驚いてまるで別々の生き物になったように言うことを聞かない。頭の中までばらばらにされたような痛みの中で、小崎は興の肩越しに拳銃を持った奇怪な影を見る。首はあらぬ方向へ曲がり頭の形はすでにつぶれていた。銃を持つ手だけはたしかに其処にあったが、腰の辺りがおかしな方向へ曲がっている。それでもなお、その奇怪な影はこちらをみて笑っていた。
 何かが落ちる軽い音が聞こえた。また銃を撃たれたのかと身を硬くするがそういう類にものではない。視線をめぐらすと、地面に伏したムイが見えた。
 腹部の痛みで焦点どころか呼吸すらままならない。生理だってこんなに苦しんだことは無かった。痛みや血に強いのは女性だなんて、残念ながら常識の範囲の話しなのだとバラバラになりそうな意識のなかで思う。
 頭から血を流しているムイは、ピクリとも動いていない。即死だろうか。思い出したかのように、口から大量の血を吐き出した興は膝をついた姿勢のまま痙攣と咳を繰り返している。
 そして少しずつ意識が痛みにしか向かなくなっていることに小崎は恐怖を覚えた。
 このまま腹部の痛みだけを思い、死んでいくのはあまりにも納得がいかない。
「供⊇」
 目の前で膝を突き朦朧とした視線を揺らしていた興に、手を伸ばす小崎。すぐ近くにいたはずなのに、あまりにもその距離が遠く感じられた。
 腹が熱い。呼吸が浅い。視界からはいってくるモノが、理解できない。心拍にあわせて傷口が爆発しているようだった。すべての意識は其処に集中していく。もう、なにも考えられなくなっていく。
 砂を食む音がどこかとおくで聞こえた。

 拳銃の音が聞こえたと、気がついた時には口から大量の血がでた。普通に咳き込んだつもりだったので、頭の中で「なんじゃこりゃー」という突っ込みがはいっていた。
 余裕といえば余裕だったのかもしれない。興は、前のめりになりそうだったからだを必死で立て直そうと足を前に出そうとした。が、ソレは叶わず力なくひざが崩れ落ちる。
 ああ、これはまずいな。そう考えた時には、すでに体中から力が入らなくなっていくところだった。呼吸するたびに、反射で咳が出る。そのたびに口から血が溢れていく。鉄臭いその匂いは、たとえ自分の血であろうとも気分のいい物ではなかった。
 痛みは、あまりなかった。あの時右手に突き刺さった棒の痛みのほうが酷かった。呼吸ができず次第に朦朧としていく頭は、肺に開いた穴ぐらいでは目を覚ますことすらできなかった。
 幾度か咳き込んだあと、小崎が倒れていることに気がついた。腹部から血が滲んでいる。彼は自分の肺を付きぬけた銃弾が小崎に当たったとは思わなかった。
 どさりと、何かが倒れるおとに興は視線だけでそれを追う。
 ムイが頭から血を流して倒れていた。驚きに一瞬意識が覚醒するほどだった。思わず力いっぱい吸った息で咳き込み、血を吐き出す。
「供⊇」
 呟くような声に、小崎を見た。腹から血を流してうずくまっている。銃声は二回。しかし三人が倒れている。
 ――なぜ?
 疑問に答えるものはいなかった。空気が抜けるのを防ごうと胸を思わず押さえ、手に血が付いた。
 興は理解する。自分の体を突き抜けた弾丸が、小崎に突き刺さったのだと。
 ――たてにすらなれないのか。
 心臓にあわせて肺が熱を帯びる。
 情けなさよりも、腹を押さえている小崎の姿を見て申し訳ない気分になる。
 背中から軽薄な笑い声が聞こえてきて、拳銃を撃ったものがなんなのかを興は理解する。とはいえ、判ったところで体を動かす力ものこってはいなかった。
「こ……」
 声が出ない。こちらに手を伸ばしそのまま力なく落ちていく小崎の手をみても、興は動けなかった。
 ――ごめん。
 意識が落ちていく。ゆっくりと、地面が近づいてくるのが見えた。

 誰の所為で失敗したといえば、間違いなく自分であると、彼女は胸を張っていうだろう。予想通りではあったが、思ったより厄介だったのは確かだった。予測が甘かったといえばそれまでだが、小説より現実は奇なりなわけで、まぁそんなこともあるのだろうと笑う。
 できるだけ干渉するわけにはいかない。それだけが面倒だった。折角立てた代理のメイドは、途中で主人の命が下り申し訳なさそうな表情一つしないまま、ここまでですといっていなくなったし、仕方なく影響の及ばないように一人で孤軍奮闘をしていた。元凶を掴んだときには、既に最初のズレが起きていた。仕方ないので巻き込んだ少年は、思ったよりも働いたが、結局は役に立つ物ではなかった。
 果てさて困ったぞ。そんなことを、考えていた。

連載小説:039

039:log
 口の中に広がったのは鉄錆の匂いのする血の味と、臭い脂肪の臭い。しかしソレも一瞬で、すぐに味も匂いも消えてなくなった。残ったのは、肉を噛み切るあまりにもおぞましい感覚だけだった。
 思わず興はえづく。胃からこみ上げてくる嘔吐感を必死で飲み込むと、ムイにばかり注意を向けている優男の背中を見た。
 あまりにも無防備。今までとはまるで違う無防備さ加減に、思わず首をかしげる。そしてただじっとソレはムイの言葉に耳を傾けていた。極力無表情に、極力無反応に。

 ムイと優男は向き合ったまま動かない。
「一体、お前たちは何だ」
「……」
「はじめは世界の垢程度だとおもっていたが、君のような高密度な存在がいる説明にはならない。間違いなく君のそれは、その他の何倍もの密度をもってるが」
「知ったところで何も変らない。教えたところで何も変らない」
「それはそうだね、ああ、間違い無い。でも、私が判らないというのは」
 すっと、ムイは目を細め優男をねめつける。
「とても不愉快だ」
 顔面を蹴り飛ばす勢いで足が振り上げられた。背が高くないムイの蹴りは、階段の上にいる男の顔どころか胸にもとどかない。が、彼女は体ごと飛び上がりそのまま体を回しながら優男の顔面を蹴り上げる。
 自分の真上を人間が飛んでいくというとんでもない経験を興は味わった。思ったより空圧がすごい。思わずよろめき、次に急いで彼は飛んでいった優男の姿を探した。
「大丈夫、壊していない。これは、美甘・興。君がやらなければいけない仕事だ」
 無言で頷き階段を登っていく。一階へつづく扉の傍に、すでに優男の面構えを崩したソレが床に崩れ落ちていた。
「ぐ……う」
「なぜ小崎を狙う」
「……」
「なぜこんなことをするんだ」
「食物連鎖の頂点に立つやつらにはわからない。だから、死ね!」
 隠し持っていた小型のナイフを振り上げると、優男は一気に興との距離をつめた。興にとって幸運だったのは、口の中に広がる嫌悪感と胃からこみ上げる嘔吐感のおかげで相手の動きにだけ集中できたことだった。
 視線に殺気をみなぎらせ、いつ飛び出してもおかしくない優男の姿は、たとえしっかりと動きが見えなくても予想通りだった。
 しゃがんだ状態から、一気に前に踏み出す足。拳を振り上げるが、それは体重移動につかうブラフ。本命のナイフを掴んだ腕は視界の外側を回りこむように大振りで、狙うのは興の目。
 ゆっくりと一歩。相手が動き出すのと同時に体をずらした。双方とも体捌きすらまともにできないものどうし、予想があたったものの勝ちだった。
 振り下ろした銀閃は、風だけをきり勢いでたたらを踏む優男。
 冷ややかな目でソレをみていた興は、ふと片足でふらふらとしている男の足を力いっぱい蹴り飛ばした。
「ぐあ!」
 悲鳴をあげ、階段から落ちていく男。顔面から滑るようにして階段をくだりきった。跡を残すように赤い血が階段についていたがすぐにまたその形も色も失って元に戻る。
 そんな不思議なはずの光景をみても、興はなにもおもえなかった。ただ、地下一階へと続く階段の踊り場に無様に転がった姿が、かえるのようだな等と愚にもつかない考えで男を見下ろしている。
 ふらりと興は階段を飛んだ。風を切る音が耳に届く、体が支えをなくし不安に彩られ始めたと同時、踊り場に着地。が、ねらった着地点の足場が悪く、足を滑らせた。
「とと……」
「なかなかエグイことをする」
「ふつうに壊れないなら、勢いでもつけないと」
 淡々と言ってのける彼の足元には、踏みつけられ首をあらぬ方向へまげた優男だった物が転がっていた。
「足、挫いたかな……」
「ずいぶんと暢気だな」
「吐きそうで余裕が無いだけ」
 そういうと、興はふらふらと階段を登っていく。後ろを追いかけるようにムイもまた階段を登り始めた。一度彼女は踊り場を振り返った。蛙の死体のような男の死体が一つ。
 閉まりだす扉に手をかけ、ムイはその死体から目をそらすとそのまま一階へと歩き出した。

 外の空気は次第に湿気から開放される代わりに熱を持ち始めていく。
 いまだ外が夏なのだと、思い知らされる。地下の湿気とはまるで逆ベクトルの肌にまとわり付く湿気が肺にまでしみこんできて、興は一度服をずらす。ふとおもいだす、夕暮れどきに捕まえられたのだと。
「昼……そうか一日たってたのか」
「あんな狭いところで、良く寝れるな」
「気絶してたんだよ」
「なるほどね」
 廃ビルの一階は思ったよりしっかりと出来上がっていた。電気まではとおっていないし、窓ガラスは入っていない物の、内装はほとんど完成といっていいほどである。
「小崎は?」
「タイミングてきには、そろそろだ」
 そういって、ムイは出入り口の辺りを指差す。廃ビルの周りは、入り口から見るにかぎり何もなかった。遠く、建設中のビルを覆い隠すような仕切りの向こうが見える。
 じっとそのあたりを興がみていると、風ではない揺れ方をする仕切りが一つ。ゆっくりと開いていった。
「小崎……」
 小柄で、遠くから見ればいやがおうにも彼女の細くきめ細かい髪の毛が目立つ。これほどまで遠くはなれれば、まるで銀色に見えるその髪の毛はあまりにもまぶしかった。
「興!」
 ムイは気を利かせたのか、するすると興から離れビルの外へと出て行く。
 小崎によばれ興はすっと前へ歩き出す。まるで意志のない反射のようだ。
「大丈夫?」
 目の前まできて、ムイの存在に気づいた小崎は、ぐっと足を止めた。それをみてムイは、目をそらし口もをと引き上げる。きっと、飛びつきたかったのだろう。自分が居た手前遠慮してしまった小崎の姿に、思わず笑いがこみ上げてきた。
「あ、ああ……」
「よかった」
 どこかでせみの鳴く声が聞こえる。誰も居ない工事現場の垂れ幕が、寂しそうに揺れた。

連載小説:038

038:log
 ムイは、だらしなく自分をみあげ助けを求める興を冷ややかに見下ろす。
「其処にある。それで十分だ」
 その言葉に興は、冷や水を浴びせられたように体が震えた。頭のどこかで、それはそうだな、なんて冷めたことを考えながら彼は体を起こす。
 体力的な勝ち目はない。既に息はあがっていてまともに呼吸なんかできてはいなかったし、右手に付きこまれたメスの傷口はあまりに鋭利で痛みとかゆみをともなった痺れに麻痺しかかっていた。骨も筋もきれていないのか指は動く。それで十分だと、興は拳を握った。
 痛みが体中を駆け巡る。が、あの時助けを求めるために差し込んだ棒の痛みに比べればたいしたことはなかった。もう涙もでないし鼻水もたらさないですむ。
 興の口元に笑みが浮かび、優男は一瞬眉をしかめた。

 闇雲に腕をふるって排除できる作業は終わった。
 興は必死で相手をにらみながら考える。勝っている部分はない。付け入るものは、こっちを痛めつけようとしてるあの余裕だけだろう。
 興を見下ろしながら、優男はくつくつと笑い始める。
「みすてられたねぇ」
 言葉と同時、顔面にむかって足を付きこまれた。寸前のところで首をひねったが、頭部に足が直撃、興はまた階段から滑り落ちた。
 ごつごつと、体中を叩く音を聞きながら無様にムイの前に落ちてくる興。
「……この先一人朝弓を守るのなら、アレぐらいなんとかしてみろ」
 ムイの言葉を聞いてか聞かずか、ふらふらと興は立ち上がる。酷く一階の扉が遠く感じられた。
「むりだし……」
 吐き出す興の言葉は、諦めというより呆れた語調だった。
「しっかりしろとも、がんばれともいう気はないけどね」
「いらねーし」
「頭をうっておかしくなったか。それとも、死の間際で気が狂ったか」
「ふつうだ。くそ、喧嘩もしたことないってのに……」
「ま、あまり経験の在る人間は多くはないだろうさ。一方的に攻撃を加えられた、一方的に攻撃を加えた、という二つを喧嘩にいれるのなら少しは数が増えそうだが」
 はんと、ムイは肩をあげて笑う。
「それはただの暴力だろが」
「そう、君がアレ等にしてきた行為と変らない。一方的なエネルギーの押し付け」
「……」
「そして押し付けてきた分は帰って来る。よろこべ、世界はあまりにも無慈悲に平等だ」
 階段を下りてくる足音が聞こえる。わざわざゆっくり、聞こえるように足音が響く。
 興はそれをじっと見上げていた。
「すくなくてもあんたは最低だ」
「ご名答」
 苦笑交じりにムイが答える。

 立ち上がると、酸素がたりないと体中が疲労を訴える。力が入らず思わずよろけそうになったところを、必死で踏みとどまると興は立ち上がった。
 武器になりそうなものはもう無い。位置はこちらが低く、体力もいまだ向こうが勝っている。勝ち目は無い。
 けれど、これ以上小崎に迷惑を掛けたくはなかった。
「ああ、そうそう。豆知識をひとつ」
 いきなり場の空気を壊すような言葉をムイが放った。
「人間で一番強い筋肉は、顎だそうだ」
「……顎か」
「最近の子供は顎が弱い、という話だけど……鍛えてないといういみではどこの筋肉もかわらないだろうね」
 ああ、自分は最低な事を言っている。ムイは笑いながら、胃の中に溜まるどす黒い自己嫌悪の塊を飲み下す。
「早くしないと、朝弓が来る。入れ違いになるわけには行かなかったが、ココまで来させれば彼女が無事で済むとは思えない」
「……わかってる」
「なにごちゃごちゃいってんだよ!」
 上から踏み下ろすようなけりが降ってきた。
 思わす両手を前に差し出してソレを受け止める興。だが、足場が悪く足の勢いを止めきれずに体制を崩された。
「まぁ、動かす部位でいえば足、単に力だけで言うなら舌だったりするんだけど。ああ、女性はね」
 後ろで淡々と豆知識を披露するムイを優男はいぶかしげな目でみる。と、優男をみてムイは笑った。そして手を自分の下腹部辺りに当てる。
「子宮らしいぞ」
「……てめぇ!」
 いまさら馬鹿にされたと気がついた優男は、興を無視してムイへと飛び掛った。
「いや、ホントだ。私も調べたことはないのだけど」
 飛び降りながら蹴りを放つ男の足を、一歩引くだけでムイはよける。
「でもまぁ、子宮じゃ相手をどうこうできないなぁ。あ、いや。どうこうはできるか? ははははははは!」
 笑う。
「てめぇえええええええええ!」
 我を忘れ飛び掛る優男の背後で影が揺れた。
「お前、どっちむいてんだ」
 ぼそっと、呟く言葉はあまりに異様で、男の動きが止まる。
 背中から興の顔がぬっと出てきたのをムイは見た。彼女は目をそらさない。しかしもう笑ってはいなかった。
「があ!」
 悲鳴とうめきのような声が漏れる。肩口に噛み付いた興は、そのまま食いちぎる勢いで男の肩口の肉を噛み切った。
 口の中に、血の味と……多分人が味わってはいけない味がした。しかしそれはすぐに口のなかで霧散、味すらきえさった。
「ぐ、きさま!」
 興の頭を振り払おうと男が手を伸ばす。その手に興はさらに噛み付いた。あまりにも凄惨な光景だった。まるで獣のようにしかみえない興を、ムイは無表情て見続ける。まるで自分に責任があるかのように、じっと目をそらさずに。
「ぎゃあああああ!」
 振り払い、千切れた部分をかばうように男が退く。一瞬、手そのもが霧散しかかったのをムイは見た。
「へぇ、なるほど。そうか、そういうことか」
「……」
 ムイの言葉に男は苦しげな表情を向けた。
「お前たちは、形を保てないと存在できないのか。人間が君たちの観測者、というわけだ」
「……」
「……いや、違うか。ならこんな人がいない観測されない場所に拠点は構えない、かな」
 ふむと、うつむき考え始めるムイ。口の中のこった感触を吐き出そうと苛立たしげに興がため息をつく。

連載小説:037

037:log
 飛び上がるように踊り場にたどり着くと、そのままの勢いで影の一つに激突する。骨の折れる感触を肩で感じながら興は踊り場に着地。勢いをころさないまま、片足を軸にもう一つの人影へ足を。それは蹴りのような綺麗な動きではなく、全く体重移動のできていない乱暴な振りだった。だがそれで十分な攻撃力になる。ほとんど人間とはいいようのない感触を足に感じながら興は、足を振り切った。
 人間の形をしているようで、そのじつ人間とは程遠い存在。中を流れる赤いちも、体を支える骨も、体を動かす筋肉も、何もかもが人のソレと比べれば脆弱だった。
 形を失えば存在した証そのものすら消えてしまうソレは、普通の人間相手に足を止めることすらできないか弱い存在だった。
 だがそれでも形は人である。それは大いに脅威ではあった。はずだった。見分けの付かないそれは、殺さない限り人かどうか判別がつかないということで、そして目の前で友人を殺さないといけないという現実になる。
 なぜわざわざ人間に擬態するのか理由を興はしらないが、それでもその擬態そのものが脅威であることは知っている。
 だからこそ彼は容赦しない。目をみて言葉を交わして手を緩めた瞬間に、殺されるのはこちらなのは目に見えている。姿かたちなど目を合わせうこともせず、一瞬ぶれた視界のなかでただ拳をふるう。彼が小崎の下で拳を振るうようになってから、身に着けた己の心を守るすべだった。

「いつの間に逃げ出しやがった!」
「殺す!」
「イヒィィィィィィ!」
 叫び声が階段に反響し、奇妙なこだまをつくる。わんわんと響くなか、血の匂いに酔うことしか興には許されていない。既に人型の叫び声は届かず、悲鳴も聞こえない。手に残る感触を振り払うように上から降ってくるアレを一つ一つつぶしていく。
 無言で無表情。血の海にたちながら、返り血が一瞬にして霧散するため赤く染まっていない男が一人立っているというその光景は、あまりに凄惨だった。
「興、立ち止まらないで登れ」
 背中からかけられたムイの声に、一瞬興の動きが止まった。叫びと悲鳴ではない異質な声に反応した反射ではあったが、次第に言葉の意味が頭の中にしみこんでくる。
 彼が振り返ると暇そうに踊り場から少し降りたあたりで興を見上げていた。顎で上をしめす彼女をみて、興は反応せずに階段を駆け上がり始める。
 いま、朝弓の指示はない。血によった興は自分の危うさを理解している。だから、朝弓が信じたムイを信じる。ぐっと、血にぬれた階段を踏み出し興は上へ。
 一つ上の階が見えてくる。といってもビルの地下へと向かう簡素な螺旋階段だ、踊り場も階ごとの場所もなんらかわりはない。変りは扉があること一つ。
「まだ一階じゃない。もう一つあがれ」
 ムイの言葉に従順に興は足を踏み上げる扉から出てくるアレを扉を蹴り付けて押しもどすとそのまま上へと駆け上がり始めた。
 それの背中をみてムイは苦笑。
 ――そんな苦しそうに戦わなくてもいいだろうに。
 一つ上の階へとたどり着いたとき、興を追いかけようと扉から首を覗かせたアレと目があった。
「私は、美甘・興より優しくなくてね」
 躊躇いも無く笑顔で扉をけりつけた。覗き込んだ首が扉に挟まって千切れる。反動で中を舞った顔にそのまま蹴りを放つと、一瞬にして顔が霧散した。
「そろそろでてくるかな」
 けりつけた扉がへこみ、二度と開かなくなったのを確認するとため息混じりに彼女は階段をのぼりはじめた。

 一階の表示をみつけた興は、そのまま躊躇いもなく扉を開けた。久しぶりに目にする明るい光に、一瞬だけ興は足を止めた。
 同時、彼は音を聞く。
 何がと疑問が頭に上ったときには、視界がまるで流れるように飛んだ。腹を殴られたな、と思ったときには天井をみあげ興は仰向けに倒れていた。
「ひゅー、良く抜け出せたな。もしかして君、マジシャン?」
 聞き覚えのある声。軽薄で、人を小ばかにしたその声は、己のコメカミに強烈な一撃を加えた男にほかならなかった。興は、首を必死でまげ声のするほうを見る。
 知り合いにはいない顔だった。優男。大学生ぐらいだろうか、しっかりとその顔をやきつけると、興は体をおこしにかかる。
「美甘・興!」
 後ろからムイの声が聞こえた。
「そいつにばかり気を取られるんじゃない!」
 同時、右腕に突き刺すような痛みがはしった。声に全く反応できなかったとしったしゅんかん、悔しさがこみ上げ痛みはそれによって払拭される。何が刺さったのか、視線を追えば右腕に銀色のナイフのようなものが突き刺さっていた。
 開いている手で一気にそのナイフを引き抜く。いやに、抵抗なくぬけたナイフは、刃が短い変な形をしている。
 ――メス?
 下手に勢い良く引き抜いたせいで、傷口が開いたのか血が吹き出た。興奮状態にある彼の血管は開けられた穴から流れ出る血を精一杯少なくしたが、そんなものは傷口の大きさに比べれば微々たるものだった。骨まで到達しただろう傷を一瞥して、興はソレをさした人型へむかって左手を無造作に振りぬく。
「びっ」
 顎からさきを吹き飛ばされきりもみをする人影を見ようともせず、興は先ほどの優男にむかって走り出した。
 右手が痛み出す。拳を握って紛らわす。踏み出した足が、先ほど殴り飛ばした人型の体を踏み潰す。気にせずに前進、目の前に迫った興をみて優男は笑みをたたえた。

 カウンターのように興の顔に綺麗にはいった拳をムイは眺めている。
 ほとんど人間と同じ。見た目どころか今度は性能も。普通の人間相手と考えていいかもしれない。ムイは首を傾けながら考える。運悪く階段まで吹き飛んだ興が頭をかばいながら階段を転がってくる。
「喧嘩の経験は?」
「……な、い」
「何が欲しい」
「……」
「あはははは、散々僕たちを壊してくれたお礼だよ。苦しまないで死ねるなんておもわないでくれよ? ま、時間もないからついでにあのお姫様も観客に加えようか。ま、その後はあのお姫様を壊すけど」
 とんとん、と軽快な足音。軽薄な声。特徴の無い顔。興は、その人をかたどった形をしている物を見上げながら痛む右手を握った。
「アイツを殴れる拳がほしい」